山田大雅の仏像ブログ

仏像好きがお寺や仏像などについて解説します。

三井寺-美しい鐘のあるお寺

今日は,滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)について説明します。通称は「三井寺」(みいでら)なので,以下「三井寺」で統一したいと思います。

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場所は大津市役所のすぐ近くですから,アクセスも良いです。


まずは由来について説明します。


三井寺というと,天台宗の寺院でありながら歴史的に近くにある延暦寺と争っていたというイメージがありますね。


だから私も,三井寺自体,延暦寺の方針に反対する勢力が抜け出してきて創建した寺院であると思っていました。


しかし,そうではないようです。三井寺自体の歴史はとても古く,大友皇子の子の大友村主与多王という人物が天武天皇の治世に創建したとのことです。また,「園城」という寺額は,天武天皇から賜ったものであるとのことです。


ちょっと話がそれますが,ここで一つ疑問が浮かびます。大友皇子というと壬申の乱で(のちの)天武天皇と争い,滅ぼされた人物ですよね。その子供が寺院を建立することなど,時の天武天皇が認めるのでしょうか。まして,寺額を与えることなどあるのでしょうか。


以下は私の予想でしかありませんが,一応考えを記します。


これと似たようなお寺があります。それは嵐山にある天龍寺です。天龍寺の創建は足利尊氏で,後醍醐天皇の菩提を弔うために作られたものです。


しかし,足利尊氏後醍醐天皇南北朝に分かれて争ったはず。その一方が他方の菩提を弔っているということになります。


そして,なぜ足利尊氏後醍醐天皇の菩提を弔ったのかというと,尊氏についていた僧侶の夢窓疎石がそうするように説得したからとのことです。おそらくここには,尊氏による罪滅ぼしとか,反対勢力の懐柔という側面があるのでしょう。


これと同じように考えると,三井寺の創建も,正統性にやや難のある天武天皇が,自らの罪滅ぼしのために,あるいは大友皇子側の勢力への懐柔のために,お寺の創建を認め,さらに寺額を授けたのかもしれません。


以上,私の予想でした。


話がそれました。いずれにせよ,三井寺天武天皇の頃からあったようですから,かなり歴史のあるお寺だということでしょう。


その三井寺を大きく発展させたのは,平安時代に登場する延暦寺の僧円珍です。のちに智証大師という諡号を受けた人物です。


円珍は抜群に頭のいい僧侶だったようで,唐にも留学しています。唐からの帰国後,円珍は天台別院としてここ三井寺を復興しました。


しかし円珍は活動の拠点を完全にここ三井寺にうつしたということではなく,あくまでその後も延暦寺で活躍し,延暦寺で入寂することとなります。


したがって,この時にはまだ円珍の弟子たちも延暦寺にいる状態となります。


さて,その後,ついに天台宗延暦寺三井寺に分裂することとなります。


当時,延暦寺には,円珍よりも20歳くらい年上の円仁というこれまたすごい僧侶がいて,彼にも多くの弟子がいました。円珍の弟子たちは彼らと対立したのです(対立の原因は仏教解釈の相違とのことです。具体的な内容はよくわかりませんでした)。


そして993年,円珍の弟子たちは比叡山を下って円珍がかつて発展させた三井寺に移ることとなりました。この三井寺の一派を寺門派といい,延暦寺に残った円仁の弟子の一派を山門派と言います。


以来山門派と寺門派は時の権力者を巻き込んで何度も何度も対立・抗争します。三井寺は何度となく焼き討ちにあいますが,その度に復興してきました。このことから三井寺は「不死鳥のお寺」と呼ばれます(お寺で販売している小冊子の表紙には「The temple of phoenix」と書いてあってちょっと笑いました)。


その一例として,ここの本堂について説明します。今ある本堂の一個前のものは,三井寺と秀吉と対立したことから1595年に解体を命じられ,延暦寺に移築されてしまいました(現在も延暦寺(西塔)釈迦堂という建物として残っています)。しかしその4年後の1599年には,ねねによって早速再建されて現在に続きます。


まさにこのように,三井寺というのは不死鳥のように壊されては復興して,を繰り返してきたのです。


さて,ちょっと長くなったので沿革はこれくらいにして,最後に見所を簡単に説明します。


見所は,このお寺にある二つの梵鐘です。


まず一つ目は,「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれるものです。

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これは奈良時代の鐘で,10世紀頃に三井寺に寄進されたものと伝わります。


前述の通り,三井寺延暦寺と何度となく争っています。


あるとき,当時延暦寺の僧兵だった有名な弁慶が,三井寺との争いの中,この鐘を奪って延暦寺に持って帰ってしまいます。このとき弁慶が一人でこの鐘をひきづって山の上まで持って行ったことから,「弁慶の引き摺り鐘」という通称がつけられているのです。


といっても,この鐘の重さは二トン以上。流石に一人でひきづって山の上まで持っていくのは厳しいと思いますが・・・。ただ,この鐘には確かに何かひきづったような傷がたくさんありますので,大勢で協力してひきずっていったということであれば,意外と考えられるかもしれません。


さて,延暦寺について,弁慶は鐘を鳴らしてみます。すると鐘は「イノー,イノー」と響きました。


「イノー」というのは関西弁で「帰りたい」という意味だそうです。これを聞いた弁慶は,そんなに帰りたいのかと激怒し,この鐘を山の上から落としてしまいました。


これも本当かよくわかりませんが,確かに鐘には凹みのようなものがあります。その時のものなのかもしれませんね。


という伝説があって,今は三井寺に戻っているのです。


これが一つ目の鐘です。こちらは今は撞かれることなく建物の中に保管されています。傷や凹みの様子を是非みてみてください。


二つ目は「三井の晩鐘(ばんしょう)」です。


こちらは江戸時代に鋳造されたもので,上の弁慶の引き摺り鐘の跡を継ぐ二代目の鐘です。今でも鳴らされています。

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日本三名鐘というものがあります。鐘の形、銘文(梵鐘にはしばしば文章が書かれています)、音のそれぞれを代表する鐘が並び称されます。形の平等院、銘文の神護寺、そして音の三井寺です。


というように、三井寺の鐘は音が綺麗なことで有名らしいです。


鐘は200円を支払って誰でも撞くことができます。僕もついてみました。たしかに・・・綺麗です(すみません、まだ鐘の音に精通していないため、他のお寺との違いがあまりわかりませんでした)。


この鐘は昔は夕暮れに撞かれていました。そのことから、この鐘は三井の晩鐘と呼ばれて、昔から近江八景(近江の風光明媚なものを8つ集めたもの)の一つとしてもてはやされていました。


ということで、こちらの鐘は是非ご自身で撞いてみてください。


以上、三井寺を簡単に説明しました。


三井寺は非常に重要なお寺で、他にも見所はたくさんあります。大津観光の際には是非お参りください。


それでは。