鳥羽離宮−今はなき院政の舞台
まずは簡単に概略を説明します。
鳥羽離宮は白河天皇(以下この記事では,天皇や上皇や法皇は区別しません)によって造営されました。当時は「都遷りが如し」と呼ばれるように大規模な造営だったようです。
私は勘違いしていたのですが,鳥羽殿を造営したのは上の通り白河天皇であって鳥羽天皇ではありません。名前的に鳥羽天皇が作っていそうな気がしましたが,そうではないようです。
場所は桂川と鴨川の合流地点で,現在は、東は竹田駅の南あたり、西はなどがあるあたりです。今では、これから説明するようにわずかに建物などが残っているほかは開発が進み普通の街となっています。
さて,概要はこれくらいにして,中身に入ってゆきましょう。
鳥羽離宮は大きく三つのエリアに分けるとわかりやすいと思います(エリアの名前は私のオリジナルです)。①東エリア,②中央エリア,③西エリアです。
以下詳しく説明してゆきますが,ざっくりいうと,①東エリアは「極楽浄土の世界」,②中央エリアは「政治と儀式の世界」,③西エリアは「行政事務の世界」です。
まずは東エリアから説明します。
東エリアは,白河天皇陵、成菩提院、鳥羽天皇陵、安楽寿院、九体阿弥陀堂、近衛天皇陵で構成されています。これらの建物群はまとめて「東殿」と呼ばれました。
このラインナップから分かる通り、東エリアは天皇の墓地とその関係建物が造営されていて、他のエリアとは趣の異なる空間となっていたようです。極楽浄土の世界と言ったのは、このような意味です。
そのうち現在も残っているのは、白河天皇陵、鳥羽天皇陵、安楽寿院そして近衛天皇陵です。
それでは、個別に説明します。
まずは白河天皇陵です。今では御陵しかありませんが、かつては三重塔が立っていました。
次に鳥羽天皇陵です。これは安楽寿院に併設される形で作られています。ここにも同じく、かつては三重塔が建てられていました。
その安楽寿院には、鳥羽天皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来坐像があり、ネットで見れば分かるように、院政期らしいきらびやかなつくりとなっています(ただし安楽寿院は通常非公開とのことです)。
最後に近衛天皇陵です。ここには、再建のものですが多宝塔が現存しています。この近衛天皇陵は、もともと鳥羽天皇の妾妻の美福門院のお墓となることを想定して作られていたのですが、美福門院がこれを拒否したため、美福門院の子の近衛天皇が葬られることとなりました。
で、美福門院が鳥羽殿に葬られるのを拒否した理由はよくわかっていないそうです。美福門院は鳥羽天皇の寵愛を受けた人物で、両者に対立などはなかったような気もします。するとどうして受け入れなかったのでしょうかね。
さて、東エリアは以上です。
次に中央エリアの説明をします。
中央エリアは、北殿、南殿、金剛心院、泉殿、馬場殿、田中殿で構成されます。
なんか色々ごちゃごちゃ言ってしまいましたが、このエリアは鳥羽離宮の中心的な場所です。平安京の朱雀大路からまっすぐ南に鳥羽作道という街道が作られていたのは有名ですが、その道はこの中央エリアにつながっています。
北殿と南殿は御所として使われました。また、金剛心院は鳥羽離宮最大の寺院で、ここで諸々の儀式が執り行われました。
ただ、残念ながら中央エリアで今あるのは、もともと馬場殿の一部をなしていた城南宮、そして北殿跡に作られて鳥羽離宮公園くらいです。あとは開発が進んでしまい、特に面影は残っていません。
城南宮は平安京の南にある神社ということからこの名がつけられています。今でもそれなりに規模の大きい神社となっています。
鳥羽離宮跡は本当にただの公園があるだけです。ここの公園に立って、鳥羽離宮に想いを馳せることぐらいしかできません。
さて、最後に西エリアについて説明します。
このエリアは、現在は鴨川に沈んでしまっているため発掘調査ができず、詳細はわかっていないのですが、どうやら院政を行うにあたっての諸々の事務を司っていたエリアらしく、多くの庁舎が立っていたと予想されています。
ということで、今日は鳥羽離宮について説明してみました。
今では開発が進んでしまったけれどもかつては重要な建物があった場所を歩くのは楽しいです。皆さんもぜひ、鳥羽の街をぶらぶら歩いてみてください。
それでは。