山田大雅の仏像ブログ

仏像好きがお寺や仏像などについて解説します。

兜跋毘沙門天(東寺宝物館)–異国情緒あふれる毘沙門天

今日は,東寺宝物館にある兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)(中国唐時代,国宝)について説明します。

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東寺宝物館にある兜跋毘沙門天(『日本仏像史』(美術出版社)より)

兜跋毘沙門天とは何か,結論から言うと,中国の兜跋と言う都市が異民族に攻められたときに都市を守った毘沙門天を言います。

 

「兜跋(とばつ)」というのは,中国の西域にあった都市の名前です。この兜跋と言う年は現在のトゥルファンではないかと言われていますが,詳しいことはわかっていないそうです。

中国の唐の時代のある時に,この都市が異民族に攻められることとなります。中国は異民族の猛攻に打ちひしがれそうになりました。その時,突如として兜跋に降臨したのが,特殊な姿をした毘沙門天です。この毘沙門天の守護によって,兜跋はことなきを得ることができました。人々は,この毘沙門天のことを兜跋毘沙門天と呼ぶようになりました。また,兜跋毘沙門天は都市の守護神として東アジア中で信仰を集めるようになり,この信仰が日本にも伝わることとなりました。

 

普通の毘沙門天との違いは,主として3つあります。

一つ目は,頭に四方宝冠という中国風の宝冠をつけていることです。普通の毘沙門天は長い髪を言っているだけなのが通常です。

二つ目は,鎧の形が特殊であることです。兜跋毘沙門天の鎧は,鉄を編んで作ったものが膝下までワンピースのように繋がっている形をとります。普通の毘沙門天も鎧はつけるのですが,このような姿のものはあまりありません。

そして三つ目は,足元にいるのが地天女と尼藍婆毘藍婆の三体であると言うことです。中央に地天女がいて兜跋毘沙門天の足を支え,地天女の両端に,向かって左に毘藍婆,右に毘藍婆と言う2体の鬼が支える構造となっています。普通の毘沙門天は邪気を踏みつけているのですが,ここの毘沙門天は地天女,尼藍婆毘藍婆の三体が,しかも踏みつけられていると言うより体を積極的に支えているという形式なのが特徴です。

 

東寺にある兜跋毘沙門天は,中国唐から請来したものと伝わりますが,保存状態が良いことなどから国宝に指定されています。元は,兜跋毘沙門天が王城を守護するご利益があるということから,平安京の入り口である羅城門の2階部分に安置されていたものです。

 

見所ですが,楕円形で大きく釣り上がった目の表現など,同時代の日本彫刻ではあまり見る機会がない異国情緒に溢れている様子でしょう。

 

と言うことで,今日は当時宝物館にある兜跋毘沙門天について説明しました。東寺宝物館は例年春と秋の二つの季節に公開されます。情報収集の上,ぜひ行ってみてください。

 

それでは。

現光寺-寂れた寺にある美麗な十一面観音

今日は、京都府木津川市にある現光寺について説明します。

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概要

・近くの海住山寺が管理するお寺

・座っている十一面観音が優美


まずは現光寺の概要ですが,これはサラッと行きます。

創建はよくわかっていませんが,鎌倉時代にはできていた寺院です。

その後は荒廃の一途をたどりましたが,近所の農民などの支えによってなんとか廃絶するこは避けられました。明治時代になると,近くにある海住山寺が管理をすることとなりました。現在も,このお寺は無住寺(住職がいない寺)であり,海住山寺が管理しています。今残っているのは一つの小さな御堂と,その近くにある宝蔵庫だけであり,正直とても寂れています。


次に見所について説明します。見所はなんといっても,本尊の十一面観音菩薩坐像(重要文化財)です。

作者は明らかではありませんが,作風から鎌倉時代に慶派の仏師が関与していることが予想されています。

ヒノキの寄木作りで,大きさは目測100センチくらいと比較的小柄です。目には玉眼(水晶などを目の部分にはめ込む技法。平安時代末期に慶派によって考案された。)をはめており,特に下から見ると綺麗に光る目がこちらを見つめていることがわかります。

体には金箔が所々に残っていますが,これは当時のもの。金箔が剥がれている部分からは漆が黒光していて,風情があります。

凛々しい顔立ち,綺麗な衣紋の表現,繊細な冠などの装飾など,どこをとっても非常に美しいです。こんなさびれたお寺によく残っていたなあと感動するばかりです。


さて,十一面観音像の特徴として,坐像であることに触れなければなりません。十一面観音菩薩は通常立像として作られ,坐像は非常に珍しいからです(同様の例として,甲賀市の櫟野寺本尊などもありますが)。

どうしてここの十一面観音は坐像などでしょうか。詳しいことはわかっていませんが,どうやら,現光寺の近くにある海住山寺に滞在していた解脱上人(貞慶とも。)という偉い僧侶の補陀落信仰の影響を受けたものと推定されています。

補陀落信仰とは,この世界の遥南には観音菩薩が納める補陀落山という世界があり,その世界には観音菩薩がじっと座禅を組んで修行をしているという考えのことです。

解脱上人は補陀落信仰があり,その影響で,現光寺の十一面観音菩薩も座禅を組んだ姿に掘られたということです。


今日は現光寺について説明しました。最後に拝観方法ですが,現光寺の十一面観音は毎年5月と11月の2〜3日しか開帳しておりません。普段はお寺に行っても誰もいないので,注意してください。なお,公開時期については,「祈りの回廊」というサイトに乗っていますので,そこを参照してみてください。


ということで,皆さんも,優美な十一面観音をぜひみてみてください。

それでは。

安祥寺-奈良時代の十一面観音があるお寺

今日は、京都市山科区にある安祥寺について説明します。

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まずはお寺の歴史を簡単に説明します。

創建は848年。空海の孫弟子の恵運という僧侶により創建されました。そのため真言宗のお寺です。

当時は、背後にある山の上の方にある上寺(かみでら)と、麓にある下寺(しもでら)の二つの領域に分かれて分布していました。

上寺が僧侶の育成、下寺が祈祷などの役割を担っていたそうです。

以来、時の経過に従い段々と荒廃していき、江戸時代には見るも無惨な状況になってしまっていました。それを憂えた当時の住職が江戸幕府に惨状を訴え、多宝塔などの堂宇を立てて再興を果たしました。

その後、明治39年には火災により多宝塔を失います。ただ、従来塔の中に安置されていた五智如来は、その時ちょうど京都国立博物館に預けられていたため、火を免れることができました。この五智如来は、最近国宝指定されたもので、今も京都国立博物館に収蔵されています。

これまでは、無住職のお寺として基本的に公開されてきませんでしたが、2年ほど前から段々と公開に向けて動いてきているそうです。


以上がお寺の概要です。


次に見所を説明します。

見所は、本堂にある十一面観音坐像です。


檜の一木造に漆箔をしたものです。


制作されたのはなんと奈良時代奈良時代の仏像は特に京都にはほとんど残っていないので、とても貴重なものと言えます。

お寺の創建は前述の通り848年ですから、この像は創建後にどこか別の場所から移されてきたものだと考えるしかありません。一説によると、安祥寺背後の山に所在した「檜尾寺(ひのおのてら)」というお寺にあったのではないかと言われています。


像高は220センチほどの長身です。体躯は細く、また指も細長く、すらりとした美しさがあります。この点は長浜市向源寺の十一面観音を彷彿とさせます。


もともとは漆の上に金箔を貼ったものでしたが、金箔が剥がれ、今では漆により異様なほど黒光りしています。この点では木津川市の観音寺の十一面観音を彷彿とさせます(黒光り具合は安祥寺のほうが強いですが)。


最後に顔は、目が細く、しかし平安前期の仏像によくあるアニメチックな表現ではなく、奈良のリアリズムを感じさせます。


正直私は安祥寺を訪れるまでこの像を知りませんでした。しかし、正直かなり良い仏像だと確信しました。


さて、今日は安祥寺について説明しました。安祥寺は、現在のところ通常非公開で、秋などの特別公開を待つしかありません。しかし上でも書きました通り、これからは段々と開かれる時期も増えてくるらしいので、楽しみですね。


皆さんも公開時期についての情報を収集の上、ぜひいってみてください。


それでは。

 

向源寺-秀麗な十一面観音

今日は、滋賀県長浜市にある向源寺について説明します。

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概要

・日本でも有数の美しさを持つ十一面観音(国宝)

・顔は法華寺十一面観音、姿は東寺講堂梵天に似ている。不思議な魅力に溢れる。


まずはこのお堂の概要を説明します。


ときは奈良時代天然痘の流行に心を悩ました聖武天皇が、疫病封じのためここに「光眼寺(こうがんじ)」というお寺を創建させます。


紆余曲折があって、明治時代には近くにある向源寺というお寺がここのお堂を管理することとなりました。そのため、現在ここは向源寺と呼ばれています。


また、このお堂がある場所は、地名を「渡岸寺(どうがんじ)」(この渡岸寺というお寺は現在残っていません。そもそもこういうお寺があったかどうかもわかっていません。)と呼ぶため、「渡岸寺観音堂」とも呼ばれています。


まとめ

・お寺の名称は、かつて光眼寺。今は向源寺。しかし地名から渡岸寺観音堂とも呼ばれる。


さて、次に見どころを紹介します。


見所はなんといっても、ここの本尊十一面観音(国宝)です。


日本に国宝の十一面観音は7体しかありません。その貴重な一体が、なんとここ長浜の地にあるのです!


造像年代にあっては、寺伝では上記聖武天皇による創建の頃と言われていますが、様式などから明らかに平安初期と考えられています。一木造りで、内刳り(像の内部をくり抜いて、また蓋をすること。これにより木の収縮などによる造形の歪みなどを防ぐことができます)が施されています。


この像の特徴は、以下の三つです。


まずは長い右腕です。膝に簡単に手が届くくらい長いです。

長い腕は、平安初期の仏像にはしばしばみられるところです(例えば、法華寺十一面観音も長い右腕を持ちます)。

なぜ腕が長いのか。理由はよくわかりませんが、①人々を救うために腕が長くなった、②仏像を下から見上げるとちょうどバランスが取れる、など色々な考えがあります。

いずれにせよ、人間離れした不思議な魅力を醸し出しています。


二つ目は、正面の顔(以下「本面」といいます。)の左右に、あまり大きさの変わらない顔があることです。


十一面観音は、通例本面の上に多くの顔を表します。本面の横に顔をもうけるのは珍しいです。


三つ目は、本面の後ろに大笑いしている小さな顔を持っていることです。

この顔のことを「暴悪大笑面」といい、笑いの力で悪を退ける作用があると言われています。

十一面観音の後ろについた顔は、基本的にこの暴悪大笑面なのですが、普通は見ることができません。しかしここの像は、後ろに回って見ることができます。


以上の3点によく着目して見てみてください。


さて、最後に私的この仏像の見方を紹介します。


この像は、一見人智を超越した顔をしているようにみえますが、目を合わせてよくみてみると、以外とはっきりと目が示され、何か人間っぽさを感じるのです。その雰囲気は、法華寺の十一面観音に似ていると思いました。

一方、全体的な雰囲気は、少し黒ずみ、エキゾチックさを漂わせて、まるで東寺講堂梵天のようです。


このように、この像は見れば見るほど色々な見え方がしてきます。とても魅力のある仏像です。


ということで、今日は向源寺について説明しました。


ここの仏像の見所は語り尽くせません。ぜひ一回訪れてみてください。


それでは!

 

福智院 見所

今日は,奈良市にある福智院(ふくちいん)について説明します。

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福智院の入り口



概要

・運慶の父康慶が彫ったと言われる地蔵菩薩坐像が見所。

地蔵菩薩という菩薩の身分でありながら光背に多くの化仏をつけることから,「地蔵大仏」と呼ばれる。567体の地蔵菩薩が付加されており,56億7000万年という数字を象徴する。

 

まずはお寺の歴史を説明します。ここについてはお寺の係員から話を聞きましたが,ちょっと忘れいているところがあるため,間違っているかもしれません。ご了承ください。

このお寺のルーツはふたつに遡ります。一つは,もはや現存せず遺跡もないお寺である「清水寺(しみずでら)というお寺であり,もう一つは奈良市狭川のあたりにあった福智庄という興福寺の庄園にあったお寺です。

清水寺の歴史は古く,玄昉の活躍した奈良時代には創建されていました。本尊は地蔵菩薩でしたが,中世には廃絶し,なくなってしまいました。

清水寺が廃絶する少し前の1206年,福智庄にあったお寺に後で説明する地蔵菩薩が安置されました。

その後,1254年に,福地庄のお寺となき清水寺が合併する形で,今の福智院がある場所にお寺が移転し,福智庄から今の地蔵菩薩が運ばれました。

 

その後は紆余曲折があって,江戸時代頃には興福寺大乗院の塔頭寺院となり,さらにその後独立して現在に至ります。

 

次に見所を説明します。見所はなんといっても本尊の地蔵菩薩です。(著作権の関係で写真は貼ることができません。すみません‥(画像検索をすればすぐに出てきます)。

 

上述の通り,1206年に福智庄で作られて1254年に現在地に運ばれてきたものです。

 

説明すべき点は次の二点に集約されます。

 

第一に,光背(本体の後ろにある壁のような飾りのこと)にある化仏です。

 

化仏というのは,メインとなる仏像に付属して安置される小さな仏像のことです。光背に化仏をつけるのは通常如来(=仏)であることから,こちらの地蔵菩薩は「地蔵大仏」と呼ばれます。

 

この地蔵菩薩には,本体の後ろの光背に,小さいものとして560体の地蔵菩薩が,中ぐらいのものとして6体の地蔵菩薩が,それぞれつけられています。

 

ということは,本体と合わせると567体の仏像がいることとなります。この567体という数字には意味があるのです。

 

仏教では,56億7000万という数字には特別な意味があります。

初期の仏教の教えによると,お釈迦様がなくなった後,この世には当分ブッダ(つまり悟りを開いたもの)が登場することはなく,次のブッダがこの世界に登場するのは釈迦の入滅から56億7000万年後であるそうなのです。

ちなみに,この,次に登場するブッダのことを弥勒菩薩(登場した後は弥勒如来)と言います。聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。

 

しかし,人々は56億7000万年も待つことは到底できません。その間この世界を救ってくれる存在があって欲しいものです。

 

そこで,次のブッダである弥勒がこの世に現れるまで,この世界で人々を救済する役割を担う存在として活躍するのが地蔵菩薩なのです。

 

だから,地蔵菩薩と56億7000万年との間には,深い繋がりがあるのです。

 

福智院にある地蔵菩薩がもつ567という数字も,この意味が込められているのです。

 

二つ目は,康慶が主として作っているということです。

 

康慶は有名な仏師運慶の父で,運慶も,或いは快慶も彼から彫刻を学びました。

 

有名な作例は,近くの興福寺南円堂にある不空羂索観音が有名です。

心なしか,顔形がとても似ている気がします。

 

ということで,今日は奈良市にある福智院を紹介しました。福智院は奈良市のど真ん中にあるので,周囲には興福寺東大寺,新薬師寺,白毫寺或いは元興寺など,有名なお寺が数多く存在します。これらのお寺を観光するのと同時に,ぜひ福智院にも足を運んでくださいね。

 

それでは。

神呪寺 見所

今日は、西宮市にある神呪寺(かんのうじ)について説明します。

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神呪寺の本堂。ここに如意輪観音がある(ただし毎年5月18日のみの開帳)。



概要

淳和天皇の妃が出家したお寺として有名。

・ここの如意輪観音は日本三如意輪の一つ。カラー写真か白黒写真かで雰囲気が異なる(?)

 

まずは名前についてです。神呪寺という字面を見ると、なにやら恐ろしい雰囲気もありますね。しかし、「神呪」にそのような意味はありません。

「神呪」とは、般若心経に登場する単語で、偉大なご真言(真言とはおまじないのようなもの)という意味です。

般若心経では、自身のことを指して「是大神呪」と言う部分がありますが,ここからとっているのです。

 

次に歴史を説明します。

創建は831年。甲山(かぶとやま)の中腹のこの地に空海が創建しました。

その後、淳和天皇の妃「真井御前(まないごぜん)」が出家してこのお寺に入ります。その数年後、淳和天皇がこのお寺に赴き真井御前と再開したらしく、このお寺には「淳和天皇勅願所」との石碑が建てられています。

 

次に見所を説明します。見所は本尊の如意輪観音です。

寺伝によると空海自ら彫ったもので、平安時代初期のものです。実際には,10世紀から11世紀頃の作品であるそうです(wiki)。

 

ここの如意輪観音は、日本三如意輪の一つに挙げられるほどの優品です。

 

これは一般に言われていることではないのですが、思ったことがあるのでお伝えします。

この如意輪観音は、カラー写真か白黒写真かで雰囲気が全然異なるように感じます。

カラー写真で見ると、顔は結構つぶれて(目口鼻がはっきりと区別できない状態をいいます。)いますが、優しい雰囲気を感じます。すなわち典型的な平安後期の雰囲気を感じます。

一方、白黒写真で見ると、特に目がキリッとしている様子がはっきりと見ることができます。この目は、興福寺東金堂の文殊菩薩などとよく似ているように感じ、すなわち鎌倉初期の雰囲気を感じるのです。

とても不思議だと思ったので、個人的に思ったことでしかありませんが、お話しいたしました。(著作権の関係で,写真を貼ることはできません。すみません。「神呪寺 如意輪観音」で画像検索をすると出てくると思います。

 

最後に重要な点ですが、如意輪観音は毎年5月18日しかご開帳されませんので、ご注意ください。

 

神呪寺は甲陽園駅から坂道を2キロほど登った先にあります。やや坂がきついですが、別に山道などではなく、住宅街ですので、道は整備されています。如意輪観音が見られなくとも、お寺からの街の景色が良いので、楽しむことができます。ぜひ行ってみてください。

 

それでは。

 

仙洞御所 見所

今日は,京都市にある京都仙洞御所について説明します。

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仙洞御所南池と洲浜



「仙洞御所」と言うのは,上皇の御所のことを言います。「仙洞」はもともと仙人が住む洞窟という意味です。仙人は不老不死であることから,上皇も是非長生きしてくださいという意味で,上皇が住む場所をこう呼ぶようになったそうです。

 

天皇が住む御所と異なり,仙洞御所は歴史上ここという決まった場所があるわけではありませんでした。たとえば有名なところで行くと,京都の嵯峨野にある大覚寺は,もともと嵯峨上皇の仙洞御所でしたし,妙心寺はもともと花園上皇の仙洞御所でした。

 

ちなみに,京都仙洞御所は最近まで単に「仙洞御所」と呼ばれていたのですが,令和になって今上上皇が誕生し,今上上皇が住われている東京の赤坂御所が仙洞御所と呼ばれるようになったことから,こちらは「京都」仙洞御所と呼ばれるようになったそうです。

 

さて,まずは京都仙洞御所の概要について説明します。

 

京都仙洞御所を造営したのは後水尾上皇です。

 

ちなみに,同じく京都にある修学院離宮を造営したのも後水尾上皇です。。

 

前述の通り,仙洞御所というのは御所と異なってずっと同じ場所にあったわけではありませんでした。今京都仙洞御所がある場所は,江戸時代まで京都の町屋などがあるところだっとのですが,後水尾上皇が,自らの仙洞御所として,京都御所の近くのこの場所に1630年に造営しました。最初は江戸時代初期の庭師小堀遠州が作った庭があったそうです。

 

その後,京都仙洞御所は,後水尾上皇の存命中に3度も火事に遭います。後水尾上皇は火事のたびに修復をしましたが,その際にもともとあった小堀遠州の庭を自分好みに大きくアレンジしてしまったため,今ある庭は基本的に後水尾上皇プロデュースということになります。

 

もちろん当時は建物があったのですが,これが1854年の火事で消失してからは,当時上皇がいなかったことや財政難であったこともあり,以後建物は再建されることがありませんでした。したがって,「京都仙洞御所」と言っても,今では仙洞御所の建物自体は残っていません(大宮御所と言って,大上皇后の御所は残っています)。ただ綺麗な庭があるのみです。

 

次に見所を紹介します。

それは,「洲浜」から見る「南池」です。

仙洞御所の池は,森を隔てて二つに分けれているのですが,そのうち南の部分を南池と言います。

そしてこの南池は,池でありながら海の雰囲気を味わってもらおうと,海岸のように河原の石が敷き詰められています。

 

この光景が実に美しいのです。敷かれている石も丸く綺麗なものばかり。

 

実は,これらの石は神奈川県の小田原藩から献上されたものです。

 

当時の小田原藩が,石を集めるべく,庶民に対し綺麗な石を持ってきたら石一個について1升の米を授けるといい,多くの庶民から石を集めたそうです。

このことから,この瓦に敷き詰められている石を「一升石(いっしょうせき)」と呼ぶそうです。

 

以上が見所ですが,一つ筆情報を。

 

仙洞御所には柿本人麻呂を祀った祠のようなものがあります。この理由ですが,当時京都では火災が多かったことから,街では,火除を祈って「人麻呂(火止まろ)」を祀ることが多く行われたそうです。このブームに戦闘御所もあやかって,人麻呂の祠を造営したのです。

 

ということで,今回は京都仙洞御所について説明しました。京都仙洞御所は広く,またガイドもついているため,上で紹介した場所以外にも多くの見所をガイドさんから初回してもらえます。

 

是非行ってみてください。

 

最後に京都戦闘御所の拝観方法ですが,修学院離宮や桂利休などと同じく,宮内庁のサイトか往復ハガキによる事前予約が必要です。

 

修学院や桂離宮ほど人気は高くないという印象ですが,それでも予約は早いうちにいっぱいになってしまうので,早めに予約しておくことをお勧めします。

 

以下のURLから予約することができます。

https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/sentou.html

 

それでは,予約の上,是非行ってみてください。

 

それでは。