山田大雅の仏像ブログ

仏像好きがお寺や仏像などについて解説します。

延暦寺-天台宗の総本山

今日は、大津市にある延暦寺について説明します。

f:id:butsuzo-suki:20210923171903j:plain

根本中堂の碑文。



まずはアクセスについてです。

 

今回私は、①京都市出町柳駅から叡山電鉄に乗って八瀬比叡山口まで行き、②そこから叡山ケーブルに乗って比叡山の中腹まで登り、③そこから歩いて延暦寺に向かうというルートを取りました。

 

京都側から行く場合、行き方としてはこれをお勧めします。

 

ちなみに、③比叡山中腹からはさらにロープウェイに乗る方法があります。ですが、頂上についてから延暦寺まで意外と距離がある一方、ロープウェイに乗らずに中腹から歩いてもそれほど距離も標高差もないことから、節約できる上の方法をお勧めします。

 

なお、他にもバスで行く方法や、麓から歩いて山に登る方法もありますので、色々比較してみてください。

 

さて、延暦寺について説明します。

 

実は、延暦寺というのは、複数のエリアにまたがって存在するお寺の総称のことを言います。

 

比叡山延暦寺は、「東塔(とうどう」、「西塔(さいとう)」そして「横川(よかわ)」の三つのエリアに分かれて分布しています。

 

東塔と西塔は「塔」という字がありますが、別に塔があるからこのように呼ばれているわけではなく、単なるエリアの名称と理解した方が良いです。確かに東塔には多宝塔という塔がありますが、それだから東塔と呼ばれているわけではありません。

 

次に、比叡山の由来を簡単に説明します。

 

比叡山最澄が開いたということは有名です。

 

788年、最澄比叡山にこもって一乗止観院(いちじょうしかんいん)というお堂を建てました。向かって左から経蔵、薬師堂そして三昧堂という三つ建物が並んでいるだけの簡素なお堂です。この時、お寺の名称としては比叡山寺と呼ばれていました。

 

どうして最澄比叡山にお堂を創建したのか、詳しいことは理解していません。最澄は19歳の時に東大寺で出家したのですが、その年に突然比叡山にこもって12年間の修行に入ってしまうのです。

 

さて、最澄の死後、比叡山寺は嵯峨天皇から延暦寺という寺号を与えられます。「延暦」というのは創建時の元号から来ています。この時、一乗止観院は「根本中堂(こんぽんちゅうどう)と呼ばれるようになりました。

 

833年、第2代天台座主延暦寺のトップのこと)円澄という僧侶が根本中堂の近くに西塔院を開きます。これが西塔エリアの始まりです。

 

848年、円仁が東塔から少し離れた場所に観音堂というお堂を建てます。これが横川エリアの始まりで、このお堂は現在横川中堂(よかわちゅうどう)と呼ばれています。

 

これで比叡山の三つのエリアが出揃いましたね。

順番としては、東塔→西塔→横川ということになります。

 

さて、ついで887年、円珍が一乗止観院の三つのお堂を覆う一つの大きなお堂を作りました。

 

さて、その後時代は飛んで戦国時代に移ります。織田信長比叡山の勢力が西国統治の支障になっているとして比叡山焼き討ちを決行します。この時に根本中堂など延暦寺の堂塔は跡形もなく焼けてしまいました。

 

その後有力者の寄進を受けて復興します。たとえば、現在建っている根本中堂は、江戸時代に徳川家光が寄進したものです。

 

以上、ざっくりと延暦寺の由来を説明しました。

 

次にみどころを説明します。

 

まずはなんと言っても東塔にある根本中堂です。ここが比叡山の中心的な建物です。

 

本尊は薬師如来で、言い伝えによると最澄自身が彫ったものですが、秘仏のために見ることはできません。

 

本尊が収められている厨子の前には、三つの灯籠が置かれています。これが有名な「不滅の法灯」と呼ばれているものです。最澄が一乗止観院を建立して以降、一度も消えることなく今まで伝えられていることからこのように呼ばれます。今でも僧侶が1日2回忘れずに油を注いでいるようです。

 

なお。厳密には信長による非永安焼き討ちの時に火が途絶えてしまっていますが、それ以前にここの火が山形の立石寺に分け与えられていて、焼き討ちからの復興後に再び立石寺から火を譲り受けているため、現在までずっと継続していると言えるとのことです。

 

二つ目は、西塔にある釈迦堂です。これが西塔の中心的堂宇です。

実は、このお堂は1595年に比叡山の麓にある三井寺から移築されてきたものです。

 

この話を聞いた時、私は「比叡山三井寺バチバチの関係のあるのに、どうして御堂を移築できたのであろうか」と思いましたが、前提が違いました。

 

このお堂は秀吉の命令によって強制的に移築されたのです。み井出らの勢力と秀吉は対立したので、そのお仕置きのために、三井寺にとってライバル中のライバルである延暦寺に対するお堂の移築を命じられるという屈辱を味わったのです。

 

以上の由来のあるお堂に、是非とも入って見てください。

 

他にも見所はありますが、特におすすめなのは以上に二つです。

 

最後に、比叡山の廻り方について説明します。

 

まず東塔に行くことをお勧めします。ここが比叡山の中心ですので。

 

その後はぜひ西塔に行ってください。東塔と西塔は歩いて10分くらいの距離にありますから、歩いて移動すれば良いと思います。

 

そして、できれば横川にもお参りすべきであると思います。ただ、西塔から横川までは距離があるため、自家用車で来ている人は5分くらい、公共交通機関で来ている人は運行しているバスに乗って移動することとなるでしょう。

というようにちょっと手間がかかるため、本当に時間のない方は省略しても良いと思います。

 

ということで、今日は延暦寺について簡単に説明しました。延暦寺について説明しt者はすでにたくさんあるため、本ブログがお役に立てているかは心配ですが、本ブログを見て延暦寺に行こうと思われた方がいらっしゃれば幸いです。

 

それでは。