今城塚古墳–足を踏み入れることができる唯一の天皇陵
天皇の古墳。それは宮内庁が厳重に管理しており,入ることが許されないところ・・・。
しかし,日本には,実際に入ることができる天皇の古墳がただ一つだけあること,皆さん知っていましたか・・・。
ということで,今日は,「日本で唯一の足を踏み入れることができる古墳」大阪府高槻市にある
今城塚(いましろづか)古墳
について説明します。
1 今城塚古墳の概要
1−1 被葬者
まずは,今城塚古墳について簡単に説明します。
今城塚古墳の被葬者は,西暦531年に亡くなったとされる「継体(けいたい)天皇」という天皇です。
継体天皇はあまり有名でないかもしれません。しかしこの天皇は,現代まで続く皇統の最初の天皇とも言えるかなり重要な天皇です。
具体的には,継体天皇は26代天皇ですが,その一つ前の25代武烈(ぶれつ)天皇には,男の子がおらず,その他身近に後継者候補となる人がいませんでした。したがって,武烈天皇が亡くなった時,天皇家は断絶の危機に立たされます。
そこで抜擢されたのが,当時の都である奈良や大阪から遠く離れた福井にいた継体天皇です。
武烈天皇までの天皇は基本的に奈良とか大阪の人でしたから,福井から天皇を迎えるというのは異例中の異例です。どうして継体天皇が選ばれたのかは諸説あってはっきりしませんが,いずれにせよ,継体天皇が26代天皇となり,この子孫から,有名な「推古天皇」とか聖徳太子とかが生まれ,現代の皇統が続いていくこととなるのです。ですから,継体天皇はとても重要な人物です。
ちなみに,「継体」という名称は,奈良時代の貴族が後からつけた名称です。当時は「オホド王」と呼ばれていました。継体という名称がつけられたのは,まさにこの天皇が「天皇の体制を継いだ」からです。
1−2 どうして入ることができるのか
先ほども述べましたが,今城塚古墳の最大のポイントは,実際に入ることができることにあります。
天皇の古墳というのは,通常は宮内庁が厳重に管理しており,実際に入ることはできません。あくまで外から見るだけです。
しかしここ今城塚古墳は,継体天皇という天皇の古墳であるのに,実際に中に入ることができます。なぜでしょうか。
その理由を端的にいうと,宮内庁としては,今城塚古墳の近くにある「太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳」という古墳こそが継体天皇の古墳であるという見解をとっているから。
というのは,歴史的には,太田茶臼山古墳が継体天皇の古墳であるといわれてきたのです。例えば江戸時代の有名な国学者本居宣長も,継体天皇の古墳は太田茶臼山古墳であると主張していました。
しかし,近代になって文献などをしっかりと調査してみたところ,むしろ今城塚古墳の方が継体天皇の古墳であることが明らかになりました。
しかし,宮内庁としては,一旦太田茶臼山古墳が継体天皇の古墳であると決めた以上,簡単に見解を変更することはできません。そんなことをしたらパニックとなってしまいます。
それで,今でも太田茶臼山古墳を継体天皇の古墳であるという見解をとり続け,今城塚古墳を放置しているのです。
2 見所
2−1 力士の埴輪
さて,ここは仏像関係のブログ。古墳について説明するだけでは足りません。
ということで,今城塚古墳から出土した良い「埴輪」について説明します(仏像ではありません。すみません!)。
それは,「力士」の埴輪です。
力士の埴輪?と思うかもしれません。確かに力士の埴輪というのは見慣れないかもしれません。
見てください。まさに力士の埴輪です。6世紀の中頃にすでに力士という概念があることが驚きですね。
2−2 なぜ力士?
では,どうして古墳の周りに力士の埴輪があるのでしょうか。
結論から言うと,力士が四股を踏むから。
力士の踏む四股は,地鎮,つまり地面の災いを沈める意味を持っています(諸説あります)。古代の人も,古墳の周りに力士の埴輪を置くことによって,土地の災いを除去しようとしたのですね。
2−3 話が逸れますが・・・
何はともあれ,この埴輪,仏像とはまた違った魅力があります。この埴輪が作られたのは6世紀の中頃ですから,そろそろ,あるいはすでに,大陸から仏像が入ってくる頃(仏像は大体538年に入ってきたとされます)です。
この埴輪からいきなり下の写真のような仏像が入ってきたわけですから,日本人はさぞ仏像を見て驚いたことでしょうね。
3 (失礼ながらの)おすすめ度
☆☆★★★(星3/5)
4 最後に
今城塚古墳には,今城塚古墳歴史館という無料の資料館があります。そこでは,この古墳についての解説の他,無料のガイドを頼むこともできます。ガイドの方は懇切丁寧に古墳について説明してくださりますので,かなりおすすめです。
と言うことで,皆さんも,日本で唯一の足を踏み入れることができる古墳に,ぜひ行ってみてください。
それでは!