山田大雅の仏像ブログ

仏像好きがお寺や仏像などについて解説します。

等持院–足利将軍家の菩提寺

今日は,京都市にある等持院(とうじいん)について説明します。

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1 概要

等持院はちょっと聞いたことがないですね・・・。という方が多いかもしれません。しかし等持院は,なんと室町幕府歴代将軍家である足利氏の菩提寺となっているお寺です。

菩提寺というのは,ある人の死後の冥福を祈るお寺です。ざっくりいうと,亡くなった後にその人が所属するお寺と言っていいでしょう。

例えば,徳川将軍家菩提寺,東京タワーの麓にあることで有名な増上寺です。あるいは天皇家であれば,東福寺の近くにある泉涌寺というお寺が菩提寺です。

等持院は,歴史的にも重要な足利氏の菩提寺ということですから,とても由緒正しいお寺ということになります。

2 お寺の由来

創建は足利尊氏で,有名な禅僧の夢窓疎石を初代住職として開かれました。

その後,別の場所にあった足利氏の菩提寺である「等持寺(とうじじ)」を吸収し,このお寺が足利氏の菩提寺としての地位を承継しました。お寺の名称も,この「等持寺」に由来します。

足利尊氏が亡くなると,彼もこのお寺に葬られ,以後,歴代の足利将軍もここに葬られるようになりました。

3 見所

ここの見所は二つあります。

3−1 見所一つ目

一つ目は,歴代足利将軍の木彫像です。ここが室町歴代将軍家の菩提寺であることから,このような像があるのです。

足利の合計15代の将軍のうち,5代と14代を除いた13体の木彫像が一堂に会する姿は圧巻です。

その中でも特におすすめなのは,7代の足利義勝(よしかつ)の像です。

彼は9歳という若さで亡くなってしまった将軍ですから,像もまだ幼い子供の姿をしており,可愛いです。

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7代将軍足利義勝(よしかつ)。子供の姿なのが印象的。(https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s55.htmlより。)
3−2 見所二つ目

二つ目の見所は,庭園です。

言い伝えによると,初代住職で作庭の名人でもある夢窓疎石天龍寺の庭を作ったことでも有名)が作ったもの。庭には足利尊氏のお墓とも伝わる石の塔もあるので,是非見つけてみてください。

そして,このお寺では500円で抹茶をご馳走になることもできます。お茶を飲みながら見る庭の景色はさらに素晴らしいものですから,ぜひご馳走になってみてください。

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庭園。抹茶とともに。

4 (失礼ながら)おすすめ度

☆☆★★★ (星3/5)

5 最後に

このお寺ですが,入り口がやや複雑です。下の図で,赤く丸をした場所からしか入ることができないので,注意してください。立命館大学の方から入ることはできません。

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等持院の入り口。南から入ることとなる。

ということで,今日は等持院について説明しました。足利歴代将軍家と美しい庭園のあるお寺。皆さんも是非行ってみてください。

それでは。

千手寺 – 極楽浄土信仰の千手観音

今日は,大阪府東大阪市にある千手寺(せんじゅうじ)について説明します。

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千手寺本尊千手観音立像(康成,1357年)。やや厳しい目つきをしていることが特徴。

1 千手寺の概要

1−1 極楽浄土とは

突然ですが,大乗仏教には極楽浄土という考えがあります。極楽浄土というのは,阿弥陀如来というお釈迦様以上にすごい仏(なお,「お釈迦様以上にすごい」というのは僕が勝手に言っていることではなく,経典の中でお釈迦様自身が言っていることです。)が主催する豪華絢爛な世界のこと。この世界(=娑婆(しゃば))の遥か西の方角にあると考えられていました。

1−2 極楽浄土と生駒山西麓の関係

千手寺生駒山西麓にあるのですが,生駒山というのは,奈良の都の人々にとっては都の西に位置する高い山。この時代の人は,生駒山の向こう側(=西)には極楽浄土が広がっていると信じていたようで,生駒山西麓には,この信仰に由来するお寺がたくさん作られました

その信仰から奈良時代頃に創建されたのが,この千手寺ということになります。

1−3 千手寺の本尊

千手寺の本尊は,お寺の名前の通り千手観音です。

千手観音は,阿弥陀如来の使いとして,極楽浄土から娑婆にやって来て,人々を極楽浄土に連れて行く(これを往生極楽と言います。聞いたことがある方もいるのでは?)役割を持っています。上記の生駒山西麓における極楽浄土信仰にはぴったりの存在なのです。

2 千手寺の見所

2−1 作者など

千手寺の見所は,本尊の千手観音立像です。

この千手観音立像は,運慶の流れを汲む南北朝時代の仏師「康成(こうせい)」という人物によって作られたもので,観音様にしてはやや厳しい目をしていることが特徴です。

2−2 北朝南朝の両元号が併記された仏像

さて,この千手観音像が面白いのは,その学術的重要性にあります。

平成の初め頃,この仏像が補修工事に出された際,つぎはぎとなっているこの仏像が解体されて,内部が調査されました

そうしたところ,中に書かれていた墨書(仏像の内側には,作者とか制作年代とかその他の願いなどを書くことがよくあります。)に「正平」と「延文」という元号が併用されていたのです。「正平」というのは南朝元号で,「延文」というのは北朝元号です。

当時の学界では,世間では基本的に北朝が正当であるとみなしており,それゆえ世間では北朝の年号を使うものであると考えられていたそうですが,この仏像における記載を見て,当時の人は北朝のみならず南朝も尊重していたらしいことが明らかになったそうです。

仏像というのは,単に宗教的な魅力のある存在であるのみならず,貴重な歴史資料でもあるということにあらためて気付かされます。

3 拝観方法

所在地 :大阪府東大阪市石切町3−3−16

アクセス:近鉄石切駅から徒歩5分ほど

私が訪問したときは,お寺に付属している家のインターホンを押して住職の方にお堂の開錠をしてもらいました。また,拝観料はかかりませんでした。

4 (失礼ながらの)おすすめ度

★★☆☆☆(2/5)

5 最後に

今日は千手寺の千手観音について説明しました。小さなお寺ですが,良い千手観音があります。時間があれば,ぜひ行ってみてください。

それでは!

永観堂–横を向いた阿弥陀如来があるお寺

今日は、京都市左京区にある永観堂(えいかんどう)(正式には禅林寺。)について説明します。

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永観堂の紅葉の様子。ちょっとまだ早いかも。

1 永観堂の概要

永観堂を語る上で外すことができない重要人物は、このお寺の中興の祖でお寺の名前の由来ともなった「永観(ようかん)」という僧侶です。

永観堂は9世紀に真言宗のお寺として創建されましたが、だんだんと荒廃してゆきます。

そんな永観堂を復興し、さらに念仏(南無阿弥陀仏と唱えること。)の信仰を持ち込んだのが、この永観という僧侶なのです。

今は「秋は紅葉の永観堂」と言われるように、紅葉の名所として人気を誇っています。

2 永観堂の見所

2−1    横を向く阿弥陀如来

永観堂の見所は、紅葉はもちろんのこととして、「見返り阿弥陀如来立像」です。

この仏像の何がすごいか。それは端的に、仏像が正面を向いておらず、仏様から見て左側に顔をむけていることです。名前の「見返り」は、これに由来します。

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永観堂の見返り阿弥陀如来立像(12世紀後半,重文)

私は日本の仏像をあちこち見て参りましたが、顔を正面に向けていない仏像は他に見たことがありません。極めて珍しいことです。

2−2 なぜ横を向いているのか

ではなぜ横を向いているのでしょうか。これについては、永観にまつわるあるエピソードが元となっています。

前述の通り、永観は永観堂に念仏の信仰を持ち込んだ人物です。

あるとき彼は、永観堂念仏行道(ねんぶつぎょうどう)を行なっていました。

念仏行道は聞きなれない言葉ですが、阿弥陀様の仏像をお堂に置き、「南無阿弥陀仏」と口に出して唱えたり、あるいは心の中で唱えたりしながら、そのお堂の中をあちこち歩き回るという修行で、これを睡眠なども挟まず、2〜3日ぶっ通しで行い続けるというとてもきついものです。

さて、念仏行道をしていた永観ですが、朝方、ふと自分の前に何やら先導を切って歩く人の後ろ姿を発見します。

睡眠も取らず疲れ切っていた永観がその影をよく見ると、なんとお堂に安置されていた阿弥陀でした。

永観は呆気にとられて、歩いていた足を止めます。するとその阿弥陀様は、自分の後ろにいた永観が足を止めたのを知り、顔を左に振り返ってこう言いました。

「永観、遅し。」(「永観、何足を止めている。遅いぞ。早くついてきなさい。」という意味。)

永観はこの振り返った姿の阿弥陀様に感動し、「どうかそのままの姿で像に戻ってください」と頼みました。そうして生まれたのが、首を横に向けた阿弥陀如来の仏像です。

2−3 真相は?

以上がこの像についての言い伝えです。もちろん伝説なのですが、どうしてこのような伝説が生じたのか、少し考察してみます。

念仏行道という儀式自体は天台系の念仏信仰として、かつて本当に存在しました。

2〜3日睡眠もとらず歩き回るわけですから、今風に言うとトランス状態になることもあるわけです。永観は、そんなトランス状態の中で、上に書いたような神秘体験をしたのでしょう。

ちなみに今の阿弥陀如来は、永観がなくなった後の12世紀後半に作られたものと言われており、重要文化財に指定されています。

3 最後に

ということで、今日は永観堂について説明しました。皆さんも、振り返った姿の阿弥陀如来をぜひ見てみてください。最後に、永観堂の出口にはこんな面白い表札がありましたので、これを紹介しておきます。

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永観堂の出口にある立て看板。

それでは!

相国寺ーなき龍・八方睨みの龍がいるお寺

今日は,京都市にある相国寺(しょうこくじ)について説明します。

1 相国寺概要

相国寺を一言で言えば「室町幕府御用達のお寺」となるでしょう。そう言える理由は下記1−1から1−3の通りです。

1−1 創建

相国寺は,足利義満が1392年(南北朝が合一したのと同じ年です。)に建立した臨済宗の寺院です。

ちなみに「相国」とは,「国を相ける(たすける)」という意味。当時の足利義満左大臣の地位にあったのですが,左大臣の中国風の呼称は「相国」です。つまり、お寺の名前自体が義満の寺であることを物語るのです。

1−2 位置

足利義満は京都室町の地に花の御所(足利義満の私邸)を造営した人物。

この花の御所は,今相国寺がある場所のすぐ西にありました。幕府附属施設のような立地です。

1−3 七重大塔

さらに足利義満は,相国寺境内に高さ109.1メートルの七重大塔という壮大な建物を建てました。この塔は建立から10年ほどですぐに火災で焼失してしまいますが、近代まで日本一高い建物でした。

時の権力者は、自らの権力を誇示する奇抜なものを作ることがよくあります。聖武天皇の大仏、織田信長安土城などは良い例です。

義満による七重大塔もこの文脈で捉えることができます。こんな塔を境内に造ることからも、義満が相国寺にかけた思いの強さがわかります。

2    見所

次に相国寺の見所を説明します。見所は法堂(はっとう。禅宗寺院において,僧侶が講義を受けるお堂をいいます。)です。

2−1 法堂の概要

相国寺は,足利義満による創建以来何度も火災にあっています。今ある法堂は,1605年に徳川家康の命令によって豊臣秀頼が寄進したものです。江戸時代というと結構最近のように思えますが,これでも日本の法堂建築の中では最古のものとなります。

天井には,狩野永徳の長男である狩野光信(みつのぶ)により蟠龍図(ばんりゅうず。うねる龍のこと。)が描かれています。ちなみに,法堂の天井に竜の絵を描くことは禅宗寺院でよく行われることですが,これは龍が雨を司ることにちなみ,火除けの願いを込めてのものです。

2−2 なき龍

この法堂の中心付近で手を叩くと,天井から「ビビビーン」という弦を弾いたような音が聞こえます。あたかも龍が泣いているようであることから,これをなき龍といいます。日光東照宮が有名かもしれません。

なき龍の仕掛けは,天井の「むくり造」にあります。むくり造というのは,天井をパラボラアンテナのように少しドーム型にする工法のこと。これによって,天井に当たった音が中心付近に集中し,大きな反響音を発しているとのことです。

ただし,むくり造の本来の目的は経年による天井の部材のたゆみを防止することで,当初からなき龍をも同時に意図して作られたかはよくわかっていません。例えば日光東照宮では,なき龍が発見されたのは20世紀に入ってのことですから,建築当時からなき龍を意図していなかったことは明らかです。

2−3 八方睨みの龍

天井の竜を見ながら法堂内を歩き回ると,龍が首を常に自分の方に向けて追いかけてくるようにみえます。これを八方睨みの龍といいます。

この仕組みは逆遠近法にあります。逆遠近法については詳しく知りませんが,ネットによると,近くのものを小さく描き,遠くのものを大きく描く技法とのこと。この龍に即していうと,近くにある竜の頭部を,胴体に比して相対的に小さく描いていることになります。これによって,龍の首が追いかけているように見えるそうです。

そのメカニズムについては,調べましたが詳細な説明はありませんでした。ただ,一応参考になるかもしれないものとして,逆遠近法を使った立体画像が,どの角度から見てもこちらを追いかけてくるように見えるYouTubeの動画がありましたので,以下にURLで紹介します。ただし,こちらは立体画像である一方で,相国寺の龍の方は平面図ですから,両者のメカニズムが共通であるかについては自信がありません。間違っていたら申し訳ありません。

https://www.youtube.com/watch?v=8c_J99t0aKE

3 最後に

ということで,今日は相国寺について説明しました。相国寺には法堂以外にも,枯山水の庭園を持つ方丈(住持の方が住んでいた建物)など見所があります。ぜひ拝観してみてください。

ただし,相国寺の法堂などは,毎年3月中旬から6月初旬及び9月中旬から12月中旬しか公開していないので,注意してください。

それでは!

清凉寺2–仏像の歴史の過渡期にある阿弥陀三尊

今日は,清凉寺阿弥陀三尊像について説明します。

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清凉寺阿弥陀三尊像(『日本仏像史』(美術出版社)より」

1 はじめに

清凉寺の歴史と,清凉寺の本尊である釈迦如来立像については,

こちらで説明しました。今回は,もう一つの見所である清凉寺阿弥陀三尊像(中央に阿弥陀如来,向かって右(左脇侍)に観音菩薩,向かって左(右脇侍)に勢至菩薩)について説明します。

2 由来

この阿弥陀三尊像は,清凉寺の前身である棲霞寺の本尊です。最近まで清凉寺阿弥陀堂に安置されていましたが,霊宝館ができてからはこちらに移っています。

棲霞寺は,源融が晩年に発願したものです。源融は,本尊の阿弥陀三尊のうち中央の阿弥陀如来はも自らの顔をモデルに作らせようとしたらしいですが,残念ながら志半ばで死亡してしまいました。そこでお寺と阿弥陀如来の造営は子に引き継がれ,棲霞寺を完成させたのです。この阿弥陀三尊には亡き源融の思いが込められているということです。

3 見所

3−1 中尊阿弥陀如来

阿弥陀如来の魅力を一言で表現すると「重厚感の中に現れた新時代の柔和さ」となります。

この阿弥陀如来ができたのは896年。仏像界では,平安時代前期と平安時代後期では大きく作風が異なることが常識とされています。前期と後期の境目は大体10世紀前半。つまりこの仏像は,その過渡期にほど近い頃の作品ということになるのです。

平安時代前期の特徴は重厚感(深い彫り,大きな抑揚など)平安時代後期の特徴は柔和さということができます。例えば,神護寺薬師如来平安時代前期の典型的な作品で,平等院鳳凰堂阿弥陀如来平安時代後期の典型的な作品ですが,前者は重厚感にあふれる一方で,後者は柔和さに溢れることがわかると思います。

この仏像は,上記の通り前期と後期の過渡期にあるからか,重厚感と柔和さを兼ね揃えているように感じます。まずは重厚感としては,なんといっても体の衣紋の彫りの深さでしょう。これは神護寺像につながる点があると思います。一方で,顔を見てみると,優しく微笑んでおり,エキゾチックさなどは希薄で,柔和な印象にあふれています。

3−2 脇侍観音・勢至両菩薩

次に脇侍の魅力ですが,一言で言うと「密教の不思議な雰囲気」です。

脇侍の印相(手のポーズのこと)は独特です。実はこれは密教の印相です。

呪文とか呪いとかいえば,皆さんは手で特殊なポーズをすることを思い浮かべるでしょう。密教も呪文などスピリチュアルな要素を多分に含んでおり,様々なポージングが持て囃されます。ここの両菩薩がやっているポーズも,そんな密教に由来するものなのです。

また,この脇侍は,肩幅に比して明らかに異様なほど胴体がくびれています。これも平安時代前期の大きな抑揚の表現ということができます。

これらの様子は,同じく密教の代表的な仏像である東寺講堂五大菩薩でしょう。雰囲気がそっくりです。

3−3 ちなみに

ちなみに,この三尊像は霊宝館を入ってすぐの左側に安置されています。霊宝館の中心にあるなら心の準備ができて良いのですが,霊宝館の扉を開けてすぐの左にあるので,本当の意味でちょっとびっくりします。つまり,阿弥陀三尊像が突然目に入ることになるのですが,これがまた良いのです。皆さんも,霊宝館の不意打ちを楽しんでください。

4 最後に

と言うことで,清凉寺の今日は阿弥陀三尊像について説明しました。清凉寺阿弥陀三尊像は,霊宝館が開いている毎年4,5,10,11月しかみることができませんので,ご注意ください。

それでは!

清凉寺–内臓模型が封入された釈迦如来

今日は、京都市右京区にある清凉寺(嵯峨釈迦堂)について説明します。

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清凉寺(嵯峨釈迦堂)の山門

1 お寺の歴史

まずはお寺の歴史を簡単に説明します。このお寺は二つのステップで成立しているので、それぞれ説明してゆきます。

①第一ステップ

もともとここには、源融(みなもとのとおる)という貴族の別荘「棲霞観(せいかかん)」がありました。源融は、源氏物語光源氏のモデルの候補の一人としても有名らしいです。

895年の彼の死後、子どもが棲霞観をお寺に改め、本尊の阿弥陀三尊(清凉寺2–仏像の歴史の過渡期にある阿弥陀三尊 - 仏像好きのブログを参照)を新たに作ります。こうしてできたのが棲霞寺というお寺です。

②第二ステップ

ついで10世紀終わり頃、このお寺に奝然という僧侶が訪れ、この地に中国から持ってきた釈迦如来立像(後述)を安置するお寺を建てたいと言ってきました。当時の棲霞寺の状況はよくわかりませんが、おそらく衰退しつつあったのではないかと、勝手に推測しています。

そして、奝然の死後弟子の努力によってついにお寺が完成し、清凉寺という名前がつけられました。もとあった棲霞寺については、この清凉寺に吸収されたと推測しています。

以上がお寺の歴史です。

2 見所

2−1 奝然伝来の釈迦如来

次に見所を説明します。

見所は二つあるのですが、長くなってしまうので、二つの記事に分けて書きます。ここでは、そのうちの一つ釈迦如来立像のみを説明します。

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清凉寺本尊釈迦如来立像(『日本仏像史』(美術出版社)より)

これは、奝然が中国から持ってきたものです。伝説によると、釈迦が生きている時代にインドにおいてその姿を映したものが中国に伝わり、それが日本に伝わったものである(あくまで伝説です。)ことから、「三国伝来の釈迦像」と呼ばれます。

この仏像は、中国から来たからなのか、当時の日本の仏像とは姿がやや異なります。例えば、衣の着方が、偏袒右肩(へんたんうけん)といって仏像によくある片方の肩に羽織るスタイルではなく、両肩にしっかりとかけて胸をあらわにしません。

この仏像は当時の多くの日本人に崇敬され、「清凉寺式釈迦如来」という様式で数多くの模刻が作られました。僕が知る限り、このように全国的に模刻が造られた像は、長野善光寺阿弥陀三尊を除けば例がありません。

2−2 人体模型とも言いうる釈迦如来

さて、ちょっと難しくなりましたが、この像のどこがすごいのかを説明します。この象の凄さは「見えないところへのこだわりがすごい」ことにあります。

この像は背中が開きます。戦後間も無く、ここを開けてみた研究者がいました。すると、なんとまあ中には大量の色とりどりの布切れ、大量の長い紐に覆われた心臓、肺などの臓器の模型が出てきたのです。布切れは血液や筋肉などを、紐は血管や神経を表したもので、今風に言うと人体模型のようになっているのです。

さらに驚くべきは、外から見れば閉じている口には歯(の実物)、目と鼻の穴は実際の体のように像の内部で繋がっているのです。もう完全に人体模型です。世界最古の臓器の模型であり、他の分野からも注目されているそうです。

ではなぜこんなものを作ったのか、それは端的に、この像を生きた釈迦に近づけようとした造像者のこだわりだと考えるしかありません。とんでもない話です。

最後に一点だけ疑問があります。この像の頭部の中部には、脳に見立てたあるものが入っています。私は脳みそということだから、ウニのような模型が入っているかと思ったら、実は中にあるのは「」です。そう、造像者は脳を鏡に見立てたのです。

なぜなのでしょうか。これに関しては全くわかりませんでした。

以下はどこにも書かれていない本当に雑な予想となりますが、私の考えを述べます。

昔の人間は、人の心は心臓にあると考えていたという話を聞いたことがあります。例えばアリストテレスもそう説いたらしいです。

また、人は、心での情報処理のために目や耳といった感覚器官から情報をインプットし、また逆に、情報処理の結果を顔の表情としてアウトプットします。

そして、心臓と顔までの経路は、横から見ると逆L字形をしているため、それぞれから直進する情報を90度反射させるものが必要です。昔の人は、その役割を担うのが頭部だと考えたのではないでしょうか。

すると、脳を表現する最も良い模型は、直進する光を反射する鏡ということになりそうです。

だから脳に鏡をはめ込んだのではないでしょうか。

以上,勝手な予想でした。皆さんも何か意見がありましたらコメントください。

3 最後に

最後に注意点があります。本尊の釈迦如来立像は,春と秋の特別公開の時期及び毎月8日以外は,原則として公開していません。しかし,法要など用事があると公開しているらしく,たまたま行ってみたら公開していたと言うことが結構あります(というか,私は過去に特別公開がなされていない時期に2回行きましたが,2回とも開いていました。お寺の係員に聞いても,開いていることが「結構ある」そうです)。

なので,時間があれば挑戦して見ても良いと思われます。

ということで、今日は清凉寺について説明しました。別の記事で,清凉寺のもう一つの見所である阿弥陀三尊像についても説明していますので,こちらもぜひご覧ください。

それでは。

同聚院-仏師界のレジェンドの父が作った不動明王

今日は、京都市東山区にある同聚院(どうじゅいん)について説明します。

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まずはお寺の概要を説明します。

東福寺がある場所は、平安時代には、藤原忠平が925年に創建した「法性寺(ほっしょうじ)」という大寺院がありました。

1006年、時の権力者の藤原道長が、この法性寺の一角、現在の同聚院がある場所に、丈六(2.5メートル程度)の五大明王(不動明王をはじめとする五体の明王像)を安置する五大堂というお堂を建立します。

鎌倉時代には、火災によって五大堂は焼失してしまうのですが、中にあった五大明王のうち中心の不動明王だけは奇跡的に災禍を免れます。

その後、この不動明王を安置するお寺として同聚院が成立し、今に至ります。

今では、東福寺塔頭(メインのお寺の強い影響下にある小さなお寺)としてかなり小規模のお寺となっていますが、中には当時のままの大きな不動明王を伝えているのです。


次に見所を説明します。

見所はもちろん、本尊の不動明王です(同聚院 不動明王 で検索してみてください。)。

少し話がそれますが、皆さんは平安時代中期のもっとも偉大な仏師「定朝(じょうちょう)」を知っていますか。

この定朝という人物は、藤原氏など時の権力者御用達の仏師で、平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像など、多くの造像を手がけた人です。

その造形はあまりに美しく洗練されているために、時の権力者から、定朝の作る仏像は「仏の本様(ほんよう。本来のあるべき姿)」ともてはやされました。

以後、多くの仏師が定朝の様式を踏襲することになるくらい、その影響は絶大だったのです。まさに仏像界のレジェンドと言えるでしょう。

運慶初め慶派の人間、その他鎌倉以降の多くの名仏師は、皆この定朝の子孫です。

、、、で、話が長くなりましたが、ここの不動明王は、そんなめちゃくちゃすごい仏師定朝のお父さんである「康尚(こうしょう)」が作ったものです。

息子さんがあまりにすごい人物ですが、そんな息子さんが造像を学んだのがこの康尚なのですから、康尚もかなりすごい人だったのでしょう。


さて、そんな康尚の作った不動明王、少し着目してみましょう。なお、以下は一般に言われていることではなく、完全に私の主観です。

平安時代中期の仏像の特徴は、一般的に柔和さにあると言われます。

一方の不動明王は、忿怒相(ふんぬそう)といって怒りに怒った顔で作られます。

したがって、平安時代中期の不動明王というのは、温厚と忿怒という矛盾する二つの特徴を兼ね揃えることになりそうです。

康尚のすごさは、この二つの特徴を違和感なく組み合わせていることです。

確かにここの不動明王は怒っているのですが、どことなく優しさを感じるのです。しかも両者は互いに干渉することもありません。

なぜこう感じたのか、目が丸く、口角がやや上がっており、大きな笑みを浮かべているようにも思えるからなのでしょうか。怒っているけれど、笑っているようにも見えるということです。

いずれにせよ、表現のうまさにはただただ感動します。


ということで、今日は同聚院について説明しました。

同聚院は、秋などの一定期間しか開いていません。情報収集の上、東福寺観光と共にぜひいってみてください。


それでは。